2011年08月18日(木)
110818 [《変容の対象》]
2011年8月18日に日付の変わった頃:《変容の対象》2011年8月の1-2小節目(ピアノパート)を濱地潤一さんへ送る。
1小節目のサックスパートは11日に受け取っていた。
http://d.hatena.ne.jp/hamajijune/20110811
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2011年08月16日(火)
110814「ブラックアウト」 [レポート]
2011年8月14日:お盆の時間の合間をぬって、ダンスの公演を観てきました。
「ブラックアウト」 | 8月14日 19時半開演 d-倉庫
ダンス: 川口隆夫
構成・照明・音響: 前田真二郎 崟利子
衣装:北村教子
http://www.geocities.jp/kagurara2000/d13
※ この日は 黒沢美香 & ダンサーズ とのシェア・プログラムでした。
最初に黒沢美香 & ダンサーズ の公演「虫道」work in progressがあり、10分ほどの休憩を挟んで「ブラックアウト」公演でした。
当日の公演は超満員で補助席の出るほどでした。会場に早めに着いたこともあり、良い席も取れました。1人だったのでなるべく集中したく、開場から開演までは目を閉じていました。いろいろな開場の声が聴こえる中で、出来るだけ遠くの人の話し声を聞き分けようと考えましたが、音の雲のようなイメージが浮かんできた段階で集中力が切れました。
公演前は、ダンスは身体の時間芸術なんだよなと漠然と思っていました。
素人の僕が何を感じれるかと思って見ていましたが、
黒沢美香 & ダンサーズの公演は静と動の振り幅の広い群舞で、今回は大仕掛けな砂時計を観ているのかも、と感じました。身体は生身の身体だからデジタルなカットアップは出来ない(決定的に)のだけど、複数のダンサーさんがそれぞれ違った時間を持ちながら舞台を構成して行くものを見ると、複数の時間の存在する(早回しはあまりない)なにかしらの全体性の動きとして観れて面白かったです。
また、群舞の場合は何かしら「正しい」動きを、全体の中から自然に平均化して見ている自分がいる事。その動きに正しければ正しいほど没個性的に動きは純化されて行く事。そこから僅かにズレるものは別の個性として認識されてくる事など。
公演中、たまに台詞の挿入がありました。ナンセンスな言葉の羅列なのですが、そちらは時間の切断/張りつけなどを強く感じました。言葉は時間を超越できるのかもしれません。
カラフルで多彩な舞台だったと思いました。
その後、転換のための休憩。
休憩中、舞台には既に川口隆夫さんと思われる方がウォーミングアップのためか、舞台でジャンプをはじめていました。その状態は休憩中続き、約10分後、照明が休憩モードから発表モードに変わった段階で、公演スタート。照明きっかけで、観客の私語もなくなる。しょっぱなから、舞台の境界をぼやかされたものでした。
その後も、舞台をジャンプしてウォーミングアップを続ける人物。シャツにはジットリと汗がにじみ始めている。演出上の音楽はなく、ジャンプの一定のリズムと呼吸音が舞台をいっそう包んでゆく。
不意に止まってシャツとズボンを脱ぎ、また同じジャンプの動作が始まるが今度は揺れる身体の筋肉が強調されて肉体と重力の関係が印象に残る。
照明の光度の変化、身体の動きのコンポジション、台詞なし、途中挿入される音楽は最小限。暗転、途中LEDスポットの導入。映像なし。
非常に要素の絞った公演でしたが、その組み合わせ方、そのずらし方によって、舞台は構成されていました。
そして、そのように最小の要素であってもこれだけの多彩な表現は起こりえるのなのだから、そのから再構成したもので作り上げる。安易に逃げない、というような強い意志を感じる舞台でした。
そして、最終的には川口さんの身体が光をもって立ち上がってくる感じを受けました。最後の最後の動きの速いダンスは非常にエレガントで美しく思えました。
また、舞台の構成上のポイント、その主に「ずらし方」の感触は何かなと思っていたら、前田真二郎さんの映画「オン」のワンシーンを思い出しました。たしか、ゴルフの練習しているシーンの音と映像のパンニングの印象的なシーン。見せるための視線が不意にずらされた時に感じる気配のようなもの。
舞台が完全に暗転したときにいっそう意識させられるダンサーの息づかいが強調されて迫ってくる事や、先ほどまで見ていた身体の運動の軌跡が目の裏で残像として残っているような感覚など。
二人の映像作家が観たいと思う舞台を作った、という「ブラックアウト」。非常に硬質な態度を感じたけれど、そこには意味深い表現が多層に関わっていたように思いました。
最後に、崟利子さんは"BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW"シリーズで作品に触れていて、初対面だったけれどこちらはとても親しみを持っていた。公演後少しお話できうれしかった。"BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW"では声の印象が強く残っていて、事前に一部の情報のみを有しているという事も面白い経験だと思った。
どちらもベクトルは違えど、すばらしいダンスの公演で、良い経験を得たと感じました。
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2011年08月14日(日)
渡辺拓さん。 [福系]
数年前に古町の正福寺でセッションをさせていただいた、渡辺拓さん。
2011年5月4日に久しぶりに再会でき、その後、マイペースにお互い興味ある音源の話題などやり取りしています。もともとは丸山健一さんからの紹介でしたね。
渡辺さんはデザインの仕事などをされていますし、作られる音楽も共感できる部分も多く、数年前に(即興でしたが)一緒にセッションで来た事はとてもよい記憶になっています。また、積極的にみんなで音を出したりする事もしていきたいですね。
以下、渡辺拓さん関連のリンクを。
http://pixta.jp/@pxfabrica/(イラスト等)
http://pub.ne.jp/echo_drops_lab/ (ブログ)
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2011年08月12日(金)
7月の2曲。 [福系]
2011年の7月に曲を2曲書きました。
1曲はクラリネットと(女)声という編成で、歌詞には八畠弘晃(ヤハタ ヒロミツ)の詩『二重立方圧』(※1)を使用しました。曲名もそのまま《二重立方圧》としました。
詩は一見謎に満ちていますが、自然の超越的な(そしてそれはあるがままの)チカラのあり方と、詩の構造上の幾何学性が合わさっていて不思議な印象を受けます。よってクラリネットの幾何学的な旋律と(女)声による旋律は対等に、一見和声的に明確な意図を持ったアンサンブルを目指しませんが、どちらもそれぞれの役割を全うする事で立ち表れるような高次のアンサンブルを目指しています。
もう1曲は、コンピュータとオーボエ、そして2本のクラリネットという編成で、こちらはリアルタイム・サンプリングとその処理を行う一種のアンサンブル作品です。「一種の」と書くのはリアルタイムサンプリングを使用した作品の可能性は多岐に渡りまだ一定の定型を持たないと考えるからです。
今回はこの編成をひとつのアンサンブル器官と考え、それぞれパラメータの変調によって響きが変更されてゆくという機能を時系列に並べました。
オーボエが処理の開始と停止を常に司ります。2本のクラリネットは処理される音そのものであるとともに、処理音とのアンサンブルを常に目指します。
リアルタイム・サンプリングという機能が演奏楽器の中に介入するだけで、アンサンブル自体に考慮しなければいけない感覚は非常に増えます。この厄介な感覚自体に向うことで得られる、時間を介した構造体に興味があります。
曲名は《a florigen unit》(フロリゲン ユニット)としました。
florigenは1936年に提唱されるも2007年まで存在が確認されなかった植物の花成に関わる植物ホルモンの名前です。2007年に存在が確認されるまでの間、様々な研究がなされそれ自体非常に創造性ある考察がなされたようです。
そして、植物にとって花を咲かせるというのはとても重要なイベントです。花の形に変異を持つものは多く発見されても、花が咲かない変異というのはほとんど見つけられないと言います。
さて、音における響き(花成)の構築として上記のような編成の人工的な器官を想定したのですが、この器官が半ば強制的に生み出していく響きの連続に、
あるいはこの「人工的な」故のこの行程をどう判断するべきかというのが今、改めて考えていることでもあります。
(※1)
『二重立方圧』
詩:八畠弘晃
面(つら)
の
見えぬ
言葉
遮るものの
ない
大地
に
彷徨う
巨大な
立方体の
対流が
その
三辺交わる
頂点を
這うように
大地へと
今
結ばんと
立ち上がる
風
が
雲の
頭(かしら)を
鋭角に
降り注ぐ
は
面(つら)の
見えぬ
言葉
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2011年08月11日(木)
110811 [《変容の対象》]
2011年8月11日 濱地潤一さんより、《変容の対象》8月の第1小節目を受け取る。どのような返答にするかしばらく可能性を考える。
http://d.hatena.ne.jp/hamajijune/20110811
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とにかく、日本に帰ってきました。ドイツ_オランダ_北ベルギーを回ったのですが、それは結果的なもので、結局普段はなかなか会えない人たちに会いに行く旅でありました。
ドイツのシュトゥットガルトではメディアクンストのWolf Nkole Helzleさん。
ケルンでは鈴木悦久さんフローズン・マリーさん。
オランダではDe Meyboom Lab の廣瀬康仁さんに再会。廣瀬さんにはオランダ、そして北ベルギーを車で案内していただきました。
先月の作曲が結局ぎりぎりまでかかってしまったので、観光らしい目的は自分の中であたためられず、ただ誰とどこで会うかという事だけはきちんとしなきゃ、、という準備だったのですが結果的には皆さんに助けられて充実したものになりました。ありがとうございました。
何が充実したかのかというと、それには大きく二つくらい思うところがあります。ひとつは再会した人たちから得るものがあったこと。
もうひとつは普段の生活から一度身を離す環境に置いてみたことから改めて得るものがあったという事、その二つははっきりと感じました。
再会はいつもポジティブなものでした。実際それだけで良かったのです。その後の重ねた会話はその再会をより深く心に留めておくための方法のようなもので、、それはいつもそうですが。
普段とは違う場所に身を置く事は、一巡して改めて普段の環境を考える事になっていました。ドイツでは親日家のおじいさんおばあさんが多く声をかけてくれました。オランダでは若者が「have a nice day!」とよく使うのが素敵で印象的に残りました。
チップの文化は日本人にはやはり少し難しいですが、阿部謹也著「ハーメンルンの笛吹き男 ー伝説とその世界」を読んでみると少し思うところが増えました。
そして旅の途中から、自分が「これは日本におきかえるとどういうことだろう、、」といつも考えている事に気がつきました。そしてもし、置き換えることができないものがあったとしたら、、と思ったときに僕はその置き換え不能な部分の多くを、この旅で理解できずに過ごしているだろうということを感じました。
あのドイツ人、オランダ人の仕草は何かを意味しているのだろうか、と思ってみても何も分からないのです。でも、これはヨーロッパが単純に出来ているという事ではないはずですし、分からないからこそ結果的に実に単純な世界に身を置けていたのだろうという事なのではないでしょうか。
そう考えると、生まれ育った日本では如何に多くの身振りや仕草で溢れているのだろうと改めて感じるのです。それは、僕らが自然に身につけてきた読み取り能力のようなもので、特に自国に対しては顕著に分かるものなのかもしれません。時には深読みもするし、その結果どうしようかといつも様子をうかがっています。傷つけたり傷つけられるのが嫌だったり面倒だったりで一歩を踏み出すのをためらったりもします。
いまは、そういうものを一回リセットできたような気がしています。で、そういう自国で育んできた感受性の、その行き交う波のようなものをもう一度見直してみようかなと思っています。たぶんそれは、分かりやすい新たなアプローチを、という事にはならないはずですが、ささやかな変化となり得るだろうとそんなことを思いながら。
Posted by shimaf at 22時21分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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