2010年12月22日(水)
101221 贅沢。 [レポート]
2010年12月21日のお昼から自分の時間がとれた。
今月23日までの展覧会で和田英夫さんが参加されているものを見に行くなら
この日しかなかった。
美術館は浦佐にあるので、やや遠い。鈍行の旅では移動に時間がかかりゆっくりできないと判断して新幹線を使うことにした。東京行きの新幹線の中は平日ということもあるのだろうがガラガラで浦佐到着まで集中できた。小旅行にでも出たような、とても贅沢な気分だった。
同じ車両の乗客に若い成人男性(身なりもそれなりにきちんとしている)が面白くなさそうな顔でPSPか何かのゲームをやっている姿をみたら、何となく格差を感じて滅入りそうになったが気にしないことにした。
浦佐の駅で降りると山にはすでに冬が降りてきていて空気が違って驚いた。
冬の匂いがする。今の生活範囲ではまだこのような感覚は感じられないが季節も深まればこうなるだろうか。
そうした一種、時間のずれたような感覚の中で和田さん達の作品を見たり、常設展を見回ったりして有意義な時間を過ごすことができた。
土地に足を運ぶ事の喜びにもっと意識的になろうと思えた。
その日、前田真二郎さんから約2ヶ月前(四谷での話し合いの時だ)に受け取っていた映像作品を落ち着いた環境の中でようやく観ることができた。
「羊飼い物語/大垣2010 羊飼い物語/新宿2009」は、2画面による映像の、構成や視覚的な均整の面白さを感じながらやや俯瞰して観ることができた。と、しかし終盤で急に感情に迫ってくる展開(ささやかなのだろうか、いや)があり、なんだか涙腺にくるので、こんなことは始めてだと思った。
映像言語の持っているキャパの広さを強く意識させられた。タイミングを待ったため、観るのがとても遅くなったけれど一方で個人的にはこの日はベストだったと思う。
作品は新宿や大垣が舞台だけれど、土地の記憶をどう映像で扱えるかということを真正面で行っている。そしてそれ以外も扱っているように思えるがうまく整理できない。
その夜、勢いに任せて前田真二郎さんへ感想のメールをさせてもらい、濱地さんからの《変容の対象》に返答し、まだやりたい事はあったが力つきて眠りについた。
Posted by shimaf at 18時52分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
101220-21 [《変容の対象》]
《変容の対象》2010年12月 の7-8小節目を21日の夜に濱地さんより受け取る。
そのまま作業して8-9小節目を書き終え21日中に送った。
このときやっておかなければまた時間が過ぎてしまいそうだったことと、現在曲は転換点ではなく数小節前に示された状態を流しておきたいという気持ちも働いたので、流用されるモチーフも多い。作品の性質上、展開部と言ってしまいたくはないけれど、そのように理解される部分かもしれない。しかしこの均衡がいつ破られるかはいつもながらまだ分からない。それは意図して作るものではなく、自然な直感(と、今のところ言うしかない)によって迎え入れられるものだからだ。
濱地さんの以下の文章に転記されていた自分の文章を読み直して
読みにくさにげんなりする。オリジナルを一部修正する。
http://d.hatena.ne.jp/hamajijune/20101221
101221修正版は以下。読みにくさの修正はできていない。
http://www.mimiz.org/index.php?ID=520
Posted by shimaf at 08時55分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
2010年12月20日(月)
101220 [《変容の対象》]
《変容の対象》2010年12月の6-7小節目を濱地潤一さんへ送る。
今回は時間がかかった。最初は濱地さんからの6小節目の旋律は二つの転換点を持っているように感じたのだけれど、それだけに捕われない結果を模索した。
20日の夜は濱地さんと今後まとめる楽譜のことについて少し話をした。
Posted by shimaf at 23時58分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
《変容の対象》2009年版 [《変容の対象》]
2009年版の《変容の対象》の楽譜のレイアウトがほぼまとまった。
まだ微調整とフォントの変更などは必要だが、ようやく形になってきてうれしい。トータルで33ページになった。
《変容の対象》は1月に1曲を完成させ、1年間で12曲の小品を交換作曲していくもので、最終的にはその12曲を組曲としてまとめる。2009年の元旦から開始され、2年目の2010年ももうすぐ終わろうとしているが、順調に続いており、今月の曲の完成を待てば24曲の小品を作曲してきたことになる。
作曲の指定は五線譜によって記録できる情報を前提にやり取りは行われてきた。和歌山、新潟という物理的な距離の問題が大きいのだと思っていたが、ここまでやってきて別の意味も感じるようになってきている。
結局この2年続けて作曲していて自身の書いてきたピアノパートを見直してみると一貫して踏み越えなかった一線がある。それは人間の身体的限界を明らかに超える表現を採用するか否かという一線だ。当たり前に思えるかもしれないが、しかしこれは今のこの時代にあっては決して当たり前のことではない。
私自身が演奏する事が難しい表現は当然あるが、訓練された身体であれば大概の演奏者には演奏可能であろう範囲には留まっている。
つまり、《変容の対象》は人間によって演奏されるという事を前提に作曲され続けてきたしその一線を結局超える気配はとうとうなかったといえるのである。
五線譜で作曲するという事の意味は次第に変化していくかもしれないが、五線譜の作曲作品の演奏によって表出されるものは、突き詰めてみれば身体的な緊張と緩和の身体情報そのものであるかもしれない。音楽によって放たれた身体情報が聴き手との同期同調を導くというという事は、経験的に多くの人が知っている事ではないだろうか。
だからこそ非身体的な、しかし聴き手の身体に効果する表現を扱うということの差異にもいっそう意識的になるべきなのだろう。(一度サンプリングされた音情報であれば、同時発音数は人間の身体が同時に押さえられる限界数に左右される必要もなければ、楽器固有の音域というものすら超える事は容易である。)
一方で《変容の対象》シリーズの音源化にあたっては実際の演奏録音は行わない方針でもある。サンプリング音源を使用したMIDI演奏によるものになる予定だが、ここでその録音が最終的に扱うものは身体的な情報に関わる表現を含んでいなければならず、それなくしては決して成功とはいえないだろう。という少し倒錯した状態にはなるにはなるが、記録メディアを扱う表現においてはそれは可能でなくてはならないことだとも言えるだろう。
Posted by shimaf at 02時03分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
101220 [twitter]
プロダクト・デザイナーの高橋悠さん。
http://twitter.com/slow_glass/status/16478618217615360
Mimizの2004年にリンツで1週間行ったライブを編集してCDRにまとめたい。
音源の叩き台はできているのに包装方法等がまとまらない。
Beethoven: String Quartet #16 In F, Op. 135 - 3. Lento Assai, Cantante E Tranquillo
Posted by shimaf at 01時56分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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