mimiZ

mimiZのライブ情報、音源などを発信していきます。

2009年12月29日(火)

091221-28 [福系]

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先日買ったThe Orbの新作「バグダッド・バッテリーズ/Bagdad Batteries」が予想外に良い。


2009年12月21日(レディースクワイヤJUNE at 敬和学園高校)
今年は悩まされた突然の積雪もこの日ぐらいから少しずつ溶け始めようとしているけれど、まだ一面雪景色。

夕方まで気になっていた自分の作業を進める。はかどったかどうかはあまり思い出せない。電車の時間も近づいたので支度をしてバタバタと新発田駅へ向かって、新潟へ。
買い物など20分以内で澄ませてスターバックスでしばしコーヒー&チョコレート。街がクリスマスづいていた。
また今晩は敬和学園高校敷地内の教会でクリスマス礼拝が行われ、今年はレディースクワイヤJUNEが演奏されるとのこと。新潟からバスで敬和学園高校へ向かう。

雪道で狭くなった道路のためかバスも少し進みにくそうにしている。日も暮れて普段乗らないバス移動、それに50分以上揺られていなければならず、車内は暖房で暑く、おまけにあまり眠くもないので珍しく時間を持て余す。

仕方ないので車内でパソコンを開きMax/mspを立ち上げてイヤホンで作業。
バスのエンジン音や車内アナウンスを素材に音が加工されていく。セッションとはまた違う時間構成でできた約30分の素材が録音された。そんなことをしていたら、揺れと暑さとおかしな音でちょっと酔っぱらってしまったようだ。


クリスマス礼拝には少し遅れて参加。教会は立派で、パイプオルガンの響きも良いものだった。高校生によるメサイヤも張りがあり素敵だった。
時々会場内に小さく高周波が持続してはまた無音になっていたが、その原因や目的が分からず少し不安になった。
JUNEの演奏、よかった。特に中盤から後半は勢いもでて、よく響く教会内でミサ曲もその本来の形を取り戻しているかのようだった。西洋音楽とキリスト教の深い関係性に気がつかされる思いがする。個人的にはアカペラの二曲目の作曲家が気になったのと、最後のメドレーの「きよしこの夜」あたりでは「おぉ」となる。

残響がある音場に向けられた音組織というものが作曲上の前提になってきた歴史は少なくともあるように思われ、メシアンのオルガン即興の録音等探してみたいという気持ちが高まる。


濱地さんから《変容の対象》の10-11小節目が送られてくる。4分88拍子。にやりとするが、後に冷や汗に変わる。


2009年12月22日
雪かきをメインに。翌日少しだけ筋肉痛に。


2009年12月23日
夜に忘年会。高橋悠さん香苗さんご夫妻も。翌朝3時半くらいまで話。とても楽しかった。その後4時過ぎまで少しメール処理をして就寝。


2009年12月24日
新発田から亀田イオンへ。タワーレコードでThe Orbの「バグダッド・バッテリーズ」を買う。カウンターにはdaizyさんがむかえてくれてうれしい驚き。帰り際「遠いですがまたいらしてください。」と言われ、是非また、と思う。


2009年12月25日
グラタンおいしい。

《変容の対象》の11小節目がいよいよ進まない。mimizのブログに言い訳じみたことを書く。


2009年12月26日
夜に集中して《変容の対象》の11小節目を進める。3時間弱があっという間に過ぎてしまうが大枠のフォルムのみ決まる。

2009年12月27日
朝、11小節目の見直しをして、12小節目を書き加え、濱地さんへ送る。
何度聴いてもやや音の隙間の開いた食べかけの魚のようなピアノ譜だと思う。
意図してこうしたものではなく、結果的になってしまうのは問題だと思いこの反省を次回に活かしたい。

早速夕方に濱地さんから12-13小節目の返信があり、深夜に作業、13-14小節目を送り就寝。

2009年12月28日
夕方までに濱地さんから14-15小節目の返信があり、早速15-16小節目を書き上げて返信。
その後、フェイズボコーダーに関する論文を幾つかプリントアウトしながら
先日買ったThe Orbの新作「バグダッド・バッテリーズ」を聴いている。内容は予想外に良い。質感はとても抽象的なものが増えていて、ドラムの音などはほとんど見受けられないのも関わらず、様々な音質の要素がリズミックにおかれて水彩画のようだ。ノイズ的な要素もうまく色彩的に扱っているのが今日的に思えた。音響作品にも充分接近していながら、ぎりぎりでポップネスを失っていないように感じられたのは最近のエレクトロニカにはあまり感じられない何かであるような気がする。
これが、いま多く売れる作品かどうかは別にして、The Orbのここ数年のアルバムにことごとくなにか居心地の悪いものを感じていた僕としては久しぶりのヒットだった。
50歳のアレックスパターソンが枯れながらダンスミュージックを作っている。おそらくこれは肉体的なダンスミュージックではなくなっているけれど、すごい地点に来ているなという感じはする。

Posted by shimaf at 01時55分   パーマリンク   トラックバック ( 0 )   コメント ( 0 )

2009年12月28日(月)

091228 [福系]

濱地潤一さんへ《変容の対象》12月、13-14小節目を送る。

Posted by shimaf at 02時13分   パーマリンク   トラックバック ( 0 )   コメント ( 0 )

2009年12月27日(日)

091227 [福系]

濱地潤一さんへ《変容の対象》12月、11-12小節目を送る。

己の不勉強を痛感す。

Posted by shimaf at 16時29分   パーマリンク   トラックバック ( 0 )   コメント ( 0 )

2009年12月25日(金)

091225 [福系]

2009年12月21日に濱地さんより《変容の対象》12月10-11小節目を受け取っている。

11小節目は4分の88拍子、濱地さんの指定である。もうこうなるとこの1小節自体には拍節を意識させる拍子の役割はなくなり、作曲者がどれだけ音を(もしくは無音を)決定したか、それだけがここに盛り込まれていることになる。拍節構造その他はフレーズの音形に潜んでいるのでそれに任せることとなる。

これだけ息の長い1小節にpiano譜を書き込むのはこの《変容の対象》では始めてで、最初はにんまり受け取ったのだが、思いの他に難航しているので直接濱地さんへも返信もせず、こんな所に書いてみたりしている訳である。


濱地さんからのフレーズからぼんやり受け取れるピアノの響きというものが一応は導き手になっているのだけれど、それを裏切るかどうか、裏切るにしても良い方向に裏切らなければいけないのであるから、その導き手は導きながら同時に停滞も強いてくるようなものであるようだ。
何もが許されている状況でありながら、安易な方向へは流れられないという、ある意味でこれは音楽的な呪縛であろう。そしてこの呪縛は西洋音楽の長い歴史から綿々と続いてくるものとも深く関係しているようだ。

違う、
この響きではない、である。

そしてこの声は濱地さんからも僕自身からも発せられてはいないにも関わらず、ことあるごとに傍らに現れては鎮座する。まずはもっとよく分析して整理しないとプランが立たない。ぼんやりをまずははっきりさせよう。


hamaji junichi (2009年12月21日)「2009-12-21」
http://d.hatena.ne.jp/hamajijune/20091221

hamaji junichi (2009年12月25日)「晦渋、覚醒、制約し続けるもの」
http://d.hatena.ne.jp/hamajijune/20091225

Posted by shimaf at 18時49分   パーマリンク   トラックバック ( 0 )   コメント ( 0 )

2009年12月24日(木)

091109 [福系]

画像(180x135)・拡大画像(800x600)

先月に別のところで濱地潤一さんと石井晃さんと少しやり取りをしていました。

なかなかタイミングが合わず、ここに載せられませんでしたが、許可も得ているので転記させていただきます。相も変わらず僕自身の無知を露呈させるようなものなのですが、それがどうしたという気分でもあります。




以下のやり取りの後、石川君が書いているブログに関係すると思われるものをリンクさせてもらいます。
2009年12月17日(http://blog.goo.ne.jp/akira198551/e/3e7640a0571471c113707f7f82e2fbda)

2009年11月24日(http://blog.goo.ne.jp/akira198551/e/75f2490428888bb1d6e86b3b9a257f05

2009年11月21日(http://blog.goo.ne.jp/akira198551/e/1d06c2b5665c95d07b75e0524458e97b



*********
2009年11月9日朝起きたら髪の毛がウオーズマンのようになっていた。
普段の七三よりも八二くらいでわかれている。まぁ良いかと思う。

パン屋まで歩いてパンを買い戻って食事。少し雨がちらつく。

午後に新潟駅にて何か気を引く本でもないかと思ってぶらぶらするも見つからず。プリッツとオレンジジュースを買って帰る。そうそう、読みたい本はいま手元にどっさりあるじゃない。それにしてもJAVA関係の本は何を買ったら良いかさっぱり分からない。

ジョン・ケージの著作集は先日偶然買って読んでいるけれどそこに伺えるものは当時の時代を反映しているのだろうか 芸術のための芸術というようなことを前提とした ややちくちくしたやり取りが所々に目立っている気がする。インタビューアーとのやり取りやモートンフェルドマンの真意の分からない批判なども含めてもはや思想のノイズ、おもわずケージの求めた静寂に想いを馳せてしまった。

分からないことや曖昧な部分を徹底的に指摘しあうのはとても大切なことかもしれないが、言葉だけのやり取りのほとんどは無意味で根本を見失わせてしまう気もする。(一方で現在はそうしたやり取りは少なすぎる気もするが。やるなら建設的に。)

そう、ケージは最初から静寂なんか求めていないんだ。やはり求めていたのは音楽なんだから。

ただ一方で
いま僕の周りには静寂を感じさせてくれる作品を残している人たちが何人か思い当たるのだけど、じゃあその静寂はどこから来るのかなとそんなことを考えていたら眠くなってしまった。


うとうとしていると、夜はAMLのミーティングですと連絡をもらい、慌てたけれど、でもやっぱり少し仮眠してから参加。音出し話し合いともに有意義だった。17日はwoodyでANTI MUSIC LABORATORY vol.5。大阪からAIZさんが、新潟からミミナリーさん達とDJに円秀さんが参加される。僕はAMLとして。

http://d.hatena.ne.jp/antimusic/20091117




いしいくん 2009年11月10日 07:23
ジョン・ケージの著作集とはなんですか?『サイレンス』ですか?



shimaf 2009年11月10日 13:18
ジョン・ケージ著作選 (ちくま学芸文庫) (文庫)

http://www.amazon.co.jp/ジョン・ケージ著作選-ちくま学芸文庫-ジョン-ケージ/dp/4480092021


です。おそらく本人が正式に本にまとめた文章ではなくて、他の雑誌で掲載されるなどこれまであまり手に入りにくかった部類の文章をまとめたもののようです。
だからかも知れませんが、他者と対峙するケージの心の揺らぎのようなものがかえって強調されている気がします。個人で完結していない部分、思想として閉じきれていない部分があってかえって面白いんじゃないかとは僕は思いました。
読みやすいですしいしいくんなら1日で読んじゃえると思います。よかったらぜひ。



hamaji junichi 2009年11月10日 14:49
朝起きたら髪の毛がウオーズマンのようになっていた・・・という福島さんのその時の顔を想像し、爆笑。8−2の分け目で8の部分が爆発していたのでは。8分の2拍子とまったく関連のない言葉が想起されたり。

ところで、「そう、ケージは最初から静寂なんか求めていないんだ。やはり求めていたのは音楽なんだから。」という言葉が鮮烈で、ついコメントを。ご容赦を。



いしいくん 2009年11月10日 18:59
ジョン・ケージのことについて書かれたものを目にすることが最近多いです。福島さんの日記然りです。

最近読んだ『サイレンス』という著書も興味深かったです。
「サイレンス」という題名ですが、

>そう、ケージは最初から静寂なんか求めていないんだ。やはり求めていたのは音楽なんだから

ということを僕もそこから感じました。
ケージのアイデアは音楽以外にもかなり汎用性がありそうだなっと宝の山みたいに思える本でした。
『ジョン・ケージ著作選』も今度読んでみます。



shimaf 2009年11月10日 21:39
> hamaji junichiさま

コメントありがとうございます。髪がですね、だいぶ伸びてきてしまってですね、まさに爆発でしたよ。(笑)
まぁ良いかと思いましたけど。

>>ところで、「そう、ケージは最初から静寂なんか求めていないんだ。やはり求めていたのは音楽なんだから。」という言葉が鮮烈で、ついコメントを。

えぇ、僕もちょっと意外に思ったのですが、ケージは「沈黙」することでそこに様々な要素を発見していく行為を愛していたようなのです。そこから当然「4分33秒」のバリエーションが派生していて、ある日ケージは茸採りの時にそれを楽しんだと書いています。(うる覚えですが、、)第一楽章はキノコを眺めるところから始まり鹿の声で終え、第二楽章には雷鳴が、、等々。

僕はそこに人生に置けるある瞬間を価値ある瞬間に変えること、記憶に留める装置のようなことを感じました。これは例えばカメラを撮影する時に感じる感覚と似ている気がします。録画をスタートしてからストップするまでの切り取られた時間に何を感じるか。そこでは単純に車が横切っただけでもある側面では価値を持ち得るのです。
でも特にケージの場合はその出来事、要素を音楽としてとらえようとした感じがありました。


shimaf 2009年11月10日 21:45
>いしいくん さん

コメントありがとうございます。僕は「サイレンス」は読んでいないのですが、ケージの文章はとても強度を持っていますし、音楽以外の発想にも通じていると思いますね。上記濱地さん宛に書いた撮影行為のことでは僕はひとつなにかしっくりといく感覚がありました。

マースカニングハムのツアーにも長い間同行して音楽以外にも調理を担当したりしていたそうです。ケージの音楽思想にはキノコを始め、食の問題とも多く関わっているのも面白いですね。

「サイレンス」僕も読んでみます。


いしいくん 2009年11月10日 23:45
ケージの死の直後のインタヴュー集みたいな本(題名は忘れましたが・・・)の中で、カニングハムもキノコの話をしてました。1回毒キノコにあたったとか。

あとカニングハムが「ケージの音楽には始まりも終わりもなかった」なんて言ってます。
日常に流れてるものを切り取ってくるんだ、みたいなことを。

それから『サイレンス』の中では、『4分33秒』が、大学の無響室の中でどうしても聞こえてしまった自分の心音や体の音で、音が無いなんてないことを痛感したことが着想にあったなんてエピソードが書いてました。
『4分33秒』の中では、観客がたてる物音や咳払いとか、いろいろなものが聞こえてきますけど、それは実はどんなコンサートやライブにもあって、そういう音に4分33秒間のフレームを一旦つくることで音楽として価値を与える作業が『4分33秒』であったり、ケージの関心ごとだったみたいです。
『4分33秒』は「演劇に向かう」作品だ、と言ってるのはなんだか意味深なのですが。

ついでに福島さんの日記がきっかけでさっき「Points in Space」という
カニングハムとのコラボ作品のDVDを久々見ました。
シュピーとかズズーとか言ってる人の吐息をサンプリングしてカットアップしたような音の中でダンサーがたくさん踊ってる作品なんですが、ダンサーの息切れとかも入ってて、呼吸音とかダンサーの足踏みの音まで段々音楽に聞こえてきちゃいますね。
久々見て気づきました。
今度お貸しします。



shimaf 2009年11月11日 00:04
いしいくん さん

ありがとうございます。ぜひ今度みせてください。楽しみです。

>>それから『サイレンス』の中では、『4分33秒』が、大学の無響室の中でどうしても聞こえてしまった自分の心音や体の音で、音が無いなんてないことを痛感したことが着想にあったなんてエピソードが書いてました。

そうらしいですね、そのエピソードも書いてありました。ケージはその無響室の中で2種類の音を聴いたそうです。ひとつは低周波、もうひとつは高周波。低周波は自分の血液の流れる音で、高周波数は自分の神経系が作用した音だったらしいなど。
あと『4分33秒』が実は3楽章形式だということも実は最近知りました。奏者は楽章の切れ目を示す何らかの動作を要求されるようです。例えばピアノのふたを閉めて演奏を締めくくるなどでしょうか。







ところで、ここでのやり取りはよかったらmimizのwebに転載させてもらっても良いですか?




いしいくん 2009年11月11日 12:57
全然構いません。


>あと『4分33秒』が実は3楽章形式だということも実は最近知りました。奏者は楽章の切れ目を示す何らかの動作を要求されるようです。例えばピアノのふたを閉めて演奏を締めくくるなどでしょうか。

Youtubeでいくつか再演された『4分33秒』を見ることができますが、下の映像では第一楽章が終わった直後にケージが額をぬぐっています。何もしていないのに。オーケストラも非常に仰々しくて滑稽です。

http://www.youtube.com/watch?v=ZHEZk6dSReI

楽章に分けられていることに加えて、『4分33秒』の楽譜にはただ「TACET」という記号が書かれているのが映像にも映っています。
だから楽音は奏でませんが、「休止せよ」という楽譜の指示に従うという限りでは行為をしているというか、プレーしてるとも言えるんですね。
あるいは、楽譜が音の発動させる装置であるだけではなくて、行為の発動装置なんじゃないかなんて考えてしまいます。
聞くとか、あるいは見るっていう観客の行為を発動させることもできる装置。
そうであるなら…なんて考えて、はたと通常のオーケストラの映像を音を消して見てみたんですが、演奏者も指揮者もみんなすごい良い動きしてました。感動的でした。



hamaji junichi 2009年11月11日 15:58
一夜明け、盛り上がっていますね。
「4分33秒」という巨大な作品は以後様々な音楽的思想と行為を誘発しました。それは音楽の枠を食い破った領域にも影響を与えていますね。しかし、私はある過誤の領域もそこに大いに含んでいることに興味を覚えています。あの作品が福島さんや、いしいくんさんのやりとりのような様相を備えていて、そのアスペクトが向く方向性はある意味暴力的なほど指向性が一定ではなく拡散する宿命を帯びているのはその作品の巨大さと同時に、、、

ケージという存在論的な視点自体が大きな文脈を形成していて、そのそれぞれの作品もその支配下によって聴かれるのは、はたして幸福であるのか、それとも不幸なのかしら、、、とか考えたりもします。ピアノの初期作品なんか奮えるほど美しいですし、それはケージと知らなくても美しいことの方が少なくとも私には重要です。

サイレンスは興味深く呼んだ記憶があります。福島さんも是非。




いしいくん 2009年11月11日 23:59
>hamaji junichiさま
夏に長岡の近代美術館で福島さんとの演奏の後にお会いした石井です。
覚えていらっしゃいますでしょうか。
あの日の演奏をまだ記憶しています。
今、《変容の対象》がどんなふうに進行しているのか気になっています。


『4分33秒』やケージの存在論的な視点自体がひとつの文脈を作ってしまっていて、もしそうであるがゆえに人がケージの作品についての落し物をしてしまうのだとすればそれは不幸なことかもしれないと思います。
ただ僕のように、音楽以外の文脈からケージにアクセスした者としては、ケージに関する記録や言説に何らかのバイアスや過誤があったことも出会いの契機だったかもしれず、その良し悪しは判断しかねます。
僕はケージの初期の音源を聞いたことがなくて、これはひとまず不幸なことですので今度ぜひ聞いてみたいと思います。



hamaji junichi 2009年11月12日 12:42
石井様。ご無沙汰しています。「過誤の領域」については私の極めて私的な問題意識を想定しているのでここでは詳らかにはしませんが、福島さんと石井さんとのやりとりを興味深く拝見しました。
石井さんのように音楽以外の文脈からケージにアクセスした方のケージの「聴き方」にも興味を持ちます。
初期のピアノ曲是非聴いてみてください。ECMから良い盤がリリースされています。あと、サティの「ソクラテ」とケージの「チープ・イミテーション」はケージもそれについて語っていますので興味深いのではと思います。有名な「プリペアド・ピアノの為のソナタとインタリュード」はたくさんリリースされていますが、John tilburyというピアニストの方のものが傑作です。これは素晴らしいので是非機会があれば。
サティが出たのでついでに。ご存知かと思いますが「ヴェクサシオン」というサティのピアノ曲も是非。you tubeでもケージが演奏したものがあったような(はっきりとはしませんが)この曲についてもケージは多く語っています。

追伸「変容の対象」に興味をもっていただいてありがとうございます。密やかですが、着実に進行しています。


いしいくん 2009年11月12日 21:04
濱地様

ありがとうございます。
すべて聞いていなかったのでとりいそぎ今Youtubeで可能な限り聞いてみましたが、ぜひすべて改めてCDで聞いてみたいです。
こんなふうに豊かなものにアクセスしそびれていたことを痛感すると、『4分33秒』やケージに関する記録を、ケージや音楽を聴くこと自体についての意識の中で、僕には今のところ考えられないかもしれない部分も含めて、捉えていかなければいけないと思いました。




shimaf 2009年11月12日 23:21
皆様。

すっかり出遅れておりますが、書き込みありがとうございます。その上内容は収穫の多いものになっているので、とてもありがとうございますとしか言えない状況です。お二人の人柄故だと思いますが。

僕自身はといえば、知的好奇心はそれほど強くはなく本も気が向いた時にしか開けず、その点でいえば普段は割と薄情な日々を送っています。答えの(みえ)無い問いを大切に考えてしまうほうなので、分かったと判断したものはすぐに興味を無くしてしまいます。でも最近、もう少しだけ開く必要があると感じています。頭を再整理してみたいのです。

そんな中で今までの認識等が覆される瞬間はとても愉快です。なので、今回のケージの件は様々思うことがありました。

その件について、石井さんと濱地さんに挟まれてあれこれ意見を聞けることはとても有意義なことなのですしこういうやり取りが今後も続いて深められれば結構重要な答えに行き着くかもしれないなとか。結局のところ少ない僕の好奇心が向けられる範囲というのは「今」現在の身の回りのことなんです。そこから何を生み出していけるのか、、そんな当たり前のことしか考えられませんが。すいません。


石井さま
youtubeのリンク見ました。ありがとうございます。
とてもいろいろなことを考えるきっかけをもらいました。この映像を肯定的に見れるかどうか、そこには様々な要因がありますが、僕自身はちょっと不思議な気持ちになりました。
まずひとつにこれはケージの作品の再演ですが、ケージ自身はこの場にはいないことです。指揮者はケージではないですね。指揮者が額を拭ったとき客席から笑いが起きますがこの指揮者も少しにやけますよね、その瞬間にこの演奏は僕にとってイミテーションに感じられました。そこまで言わなくても、なにか会場全体に流れているはにかんだ感じというのは面白いですね。楽章が終わるごとに咳払いが出るのは多くの人は集中している証拠なのでしょうけど。
二つは、映像のカット割りです。カットのリズムが生まれてしまうのでなにか
音に集中することなどはできないんですね、カットの語法が多分普通の音楽を演奏する場合となんら変わらないからだと思います。ここにも作品に対する誠意は感じませんが、だからこそよく分かるものもありました。

「だから楽音は奏でませんが、「休止せよ」という楽譜の指示に従うという限りでは行為をしているというか、プレーしてるとも言えるんですね。 」
まさにそうですね。《4分33秒》の演奏の強度というものも確実に存在するようです。mimizやAMLや濱地潤一×福島諭の《4分33秒》、どうでしょうか。
そしてダンサーの方たちの演奏というのもあり得るかもしれませんよね。
《4分33秒》として発表するかどうかは問わなくても、「休止」という感覚を
強く意識している人は多く、しかもどれもわずかに異なった様子を持っているように想像しました。



hamaji junichi 2009年11月13日 18:07
「休止」、または「休符」についての考察はまだまだ足りないと自身感じています。休符は音の「始まり」を創造する唯一の存在で、また音の「終わり」も然りです。それではその「休止」が延々続くとしてそれが音楽と認識する、される為に何が必要か。ひとつにはそこに1音吹けば良いとも言えますが、そう単純に考えて良いとは思えません。
 僕はいつも音楽的ということを考えます。「休止」「休符」さらに言えば「静寂」が音楽的という「全体」に機能するために考えなければならないことはあると思いますし、これから考えたいと思っています。



いしいくん 2009年11月14日 09:22
僕も自分の思考の範囲でしか考えられないと気づきますし、いろいろ反省したり新しい問いを見つけたりできて、お二人とお話できていることをとても幸いなことだと感じます。

>福島様

>指揮者が額を拭ったとき客席から笑いが起きますがこの指揮者も少しにやけますよね、その瞬間にこの演奏は僕にとってイミテーションに感じられました。

確かにこの再演の映像では、観客はわかっているものを待ち構えているような感じがあって、最初の『4分33秒』とは全く違うプレーヤーと観客のように思います。
『4分33秒』についてなされた様々な言説を、この映像や、あるいは他のいろいろな映像とあわせてみるのは自分が思っていたよりずっと慎重におこなわなくてはいけないと自戒しています。指揮者がケージではないことも含めて大反省しています。

>二つは、映像のカット割りです。カットのリズムが生まれてしまうのでなにか
音に集中することなどはできないんですね、カットの語法が多分普通の音楽を演奏する場合となんら変わらないからだと思います。ここにも作品に対する誠意は感じませんが、だからこそよく分かるものもありました。

Youtubeに落ちているほかの映像の中には、暗闇がりの中の映像もあって、それはこちらの動画よりももっと『4分33秒』の「鑑賞者」に近い立場になるのかもしれません。
また、大きな拍手や、額をぬぐうのを見て笑うという様子には芝居がかった感じがあります。
一方で、改めて動画を見て、このカット割のおかげで僕も気づくこともありました。
ケージが『サイレンス』の中で、私たちは『4分33秒』を通して「演劇に向かう」という言葉を残しつつ、「われわれは耳といっしょに目を持っており、生きている間にこれを使うのがわれわれの務めである」と言っているのですが、動画を改めてよく見ると、目を閉じている観客を何人か見つけることができて、ケージの言葉が成就していません。

こんなふうに見ていると、僕はここにオリジナルと再演についてや、プレーする側と鑑賞する側の関係についてあれこれ思い、再演されることについては慎重な気持ちになってきます。
ただ『4分33秒』にはスコアがあって、再演可能なものとしてあるということは興味深いです。

なので、

〉mimizやAMLや濱地潤一×福島諭の《4分33秒》、どうでしょうか。
そしてダンサーの方たちの演奏というのもあり得るかもしれませんよね。

それがどんな形になるのか、特に「ダンサーの方たちの演奏」などは、どうするとそれを演奏としたことになるのか、考えます。

「休止」については、僕は今音楽的に思考することは難しいので大変申し訳ないのですが、例えばダンスの場合で考えると、なにをもって「休止」とするのか、、体が完全に休止の状態と言えば死体がありますが、本物の死体を舞台に現前させなくても、「休止」という在り方には幅がありそうです。
今興味深い貴重な宿題をたくさんもらった気持ちです。



shimaf 2009年11月16日 15:39
> hamaji junichi様

コメントありがとうございます。
>>「 僕はいつも音楽的ということを考えます。」
何となく直接は関係ないことかもしれないのですが、演奏時と日常の境目がそれほど明確でない生き方、「音楽的な生き方」という言葉を連想しました。


>石井さま

コメントありがとうございます。
>>「それがどんな形になるのか、特に「ダンサーの方たちの演奏」などは、どうするとそれを演奏としたことになるのか、考えます。 」
その後の考察とあわせて興味深いですね。ダンサーに前提にされている身体と音楽家が前提にされている身体との間には異なったものがあるようです。
例えばダンサーの呼吸でさえそれは一種の表現、演奏を伴っているということ、少なくともそれを求められる舞台の上に立たなければならないということかなと感じました。それが正しいかどうかは分かりませんが。

>>「...あるいは他のいろいろな映像とあわせてみるのは自分が思っていたよりずっと慎重におこなわなくてはいけないと自戒しています。指揮者がケージではないことも含めて大反省しています。 」
いや全然反省すること等無いと思いますし、そんなつもりで書いたつもりも無かったのですいません。少なくともここでのやり取りでは慎重な議論で停滞するよりも、お互いの考えを言い合うほうが少なくともずっと有意義だと思っています。
僕は石井さんのように若い方でいろいろな分野のことを多く吸収して、それぞれに対して創造的な言葉で表現されている人は本当に面白いと思っているんです。益々ご活躍いただきたいです。

Posted by shimaf at 03時53分   パーマリンク   トラックバック ( 0 )   コメント ( 0 )

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